窓枠に打ち付けられていた照る照る坊主が黒ずんで来た。梅雨明けを伝えるニュースはまだ先。しかし一学期末考査を終え、第二視聴覚室に入って来たまた子の声は晴れやかだった。
「こんちはー!」
 ドアを開け放ち、部屋に踏み入れた足が止まる。
「うわ、何事っスか」
 その目は窓の外に釘付けになっていた。
「何って、笹ですよ。そんなことも分からないんですか」
 表情は全く変わらない割りに、その言葉の端々で「鬱陶しい」と意思表示をしてのける武市はある意味表現力豊かと言える。
「そうじゃなくて」
 一先ずまた子は机に近付いて、自分の鞄を置いた。その間も、視線は窓に釘付けだ。
「何で笹がここにあるんスか。昇降口にあるっスよね」
「七夕だからでしょう」
 パイプ椅子に座ったまま、武市はそれまで読んでいたのだろう雑誌に目を落とす。
「そういう問題スか」
「さあ」
 ぺら、と武市が薄っぺらい雑誌のページを捲る。室内にはまた子と武市しかおらず、また子が口を閉じればその音は聞こえた。
「っていうか、まさかとは思うんスけど」
 また子はぐるりと室内を見渡す。自分と、武市と、それから二つの鞄が伺えた。その二つは晋助のものではない。彼女の判断なのだから、間違いはない。
「あの笹立ててんのって、河上先輩と似蔵スか」
「ええ、そうですよ。よく分かりましたね」
「学校に許可とか、取ってんスかね」
「さあ」
 二度目の「さあ」を受け、また子は肩を上げて窓に近寄る。
「これ以上、学校に目付けられたらまずいっていうのに……河上先輩、その辺分かってんスかね」
 少し錆び付いた窓の鍵を軋ませる。
「分かっているでしょうよ。あの人、なかなかの策士ですから」
「そうスかね。結構、何も考えてないことあるっスよ」
 かしゃん、という音の後、窓を開け放つ。目の前には片手でやっと掴みきれる程の太さの笹。その高さは一階に留まらず、二階まで届いている。また子が見下ろすと、調度そこに武市曰く策士の万斉がいた。
「お主、拙者をそのように評していたのでござるな」
 ヘッドホンからはお決まりの音漏れがしたまま。つんつんと逆立てた髪を眼前に、また子は舌を突き出す。
「地獄耳」
「否定せぬ」
 くつくつと、肩が揺れるのだけがまた子には見えた。
「河上君」
 笹の揺れが止まる。
 万斉が立ち上がり、少し離れて笹を見上げた。また子も窓から上半身を突き出して見上げる。
「こんな具合でいいかィ」
 似蔵が二階の窓からも、笹を固定していたらしい。地面に直角に降りる雨樋に、スズランテープで縛り付けられている。
「結構。では宣伝の方を頼むでござる」
 見上げ、万斉は頷いた。似蔵が顔を引っ込める。また子も捻っていた首を元に戻す。
「いや何が結構、なんスか。っていうか、どこから持って来たんスか」
「岡田殿に頼み申した」
「何で似蔵がンなもん用意できんスか」
「性格に言うと、岡田殿を通じて橋田屋に頼み申した」
「なんすか、そのヤのつきそうな団体」
「ヤのつく職業の方々でござるよ」
 万斉の口調は事も無げだったが、また子が固まってしまうには充分で。しばらくして、盛大に溜め息をつく。
「河上先輩、麻薬とかやってないっスよね」
「真面目な顔で言わないで欲しいでござるなあ」
 肩を竦めつつ、万斉が窓に近付いてくる。ちょいちょい、と手でまた子をどかす仕草をするので、また子は退いた。万斉が窓枠を超えて、視聴覚室に入ってくる。床は踏まずに、窓枠に腰掛けた状態で靴を脱いだ。靴下で床に降り、窓の外で靴の裏同士を叩き合わせる。
「最初から昇降口回ってくればいいじゃないスか」
「また子殿、そこの缶を開けるでござる」
 都合の悪いことは、聞き入れぬ耳である。また子は再び溜め息をついて、机の方を振り返った。
 相変わらず雑誌を捲る武市の前に、平たい直方体の缶が置いてある。鈍い銀色で、中央には筆で店の名前が書いてあった。大方、煎餅の蓋だろう。
「これスか」
「恐らく」
 万斉は今だ念入りに靴の裏を叩いている。アンプの置かれているこの部屋には、余程土埃を入れたくないらしい。
 また子は缶を取りに、武市の傍まで寄る。武市の読んでいる雑誌の内容に目が自然と行った。科学雑誌だ。当然、興味などある筈もない。すぐに目を離し、目的の缶を手に取る。
「開けるっスよー」
 宣言してから、蓋を取り去る。さら、と中に入った紙切れ達が僅かに身を揺らす。
「短冊!」
 色とりどりの、長方形の紙。パンチ開けられた穴には、御丁寧に穴を保護するシールが張られている。その上で、凧糸が適度な長さで通されていた。
 しかしこの紙。元はただの色折り紙のようだが、明らかに既に下方に何か書いてある。また子は一枚手にとって、顔を近づけた。見た目からして、判子のようだ。斜めに入った『鬼兵隊』という文字と、それと交差するように置かれたギターのイラスト。それにQRコードがあった。
「宣伝、スか」
「裏も見てみるといいでござるよ」
 ようやく満足がいったらしい。靴を片方ずつぶら提げ、万斉も缶の中を覗く。
 促されるままに、また子は鬼兵隊のロゴ入り短冊を裏返す。
 縦に割られた枠の中に、また子の顔写真と、その下に英字でパートと名前が打たれていた。こちらも、判子であるようだ。さあ、と血の気の引いた顔でまた子は手当たり次第に缶の中の短冊をひっくり返す。メンバー単体のものが五種類、全員が刷られたものが一種類の、計六種。
「いつ撮ったんスか!」
 悪い顔ではない、むしろ良い笑顔でまた子は写っていた。しかし、小さな枠内一杯に顔が刷られているのである、それも自分の素知らぬところで。
「拙者ではござらぬ。それにきちんと拙者は」
「じゃあ誰スか」
 また子が万斉の言葉を遮った。
「企業秘密でござる」
「何だ企業って、いつあたしは就職したんスか。っていうかあんたが社長か、社長なのか」
「社長は晋助でござろう。拙者は相談役」
「なるほど、ピッタリっスね。って違うだろうが! 話を逸らすな!」
 ぽつりと背後で武市が「漫才ですか」と突っ込んだのは、気付かないらしい。また子は火を吹かんばかりに万斉に詰め寄る。
「誰から、入手したんスか」
「お主のファンクラブ会員から、としか言えぬ」
 やはりまた子の背後で、武市が「いやいや、それもう答えでしょう」と突っ込むが誰も聞き入れない。
「ファ、ンクラブって、え?」
 呆けるまた子に、万斉が説明を滔々と加える。
「体育大会で策を張ったのが功を奏したでござるよ。奇跡の転校生アンカー・高杉晋助、ルックスと雰囲気でばっちり女性層の引き込みに成功、ファンクラブ成立。それに付随するように鬼兵隊ファンクラブが成立。その後、規模に差はあれど各メンバー毎にファンクラブが成立するに相成った」
「相成った、って」
「また子殿には助かっているでござるよ。男性層は拙者らだけでは厳しいでござるからなあ」
 また子の怒号が飛ぶのと、ドアが開くのが同時だった。

 似蔵に言い渡された「宣伝」とやらで、ロゴと顔写真入りの短冊を持った生徒達がわらわらと笹に群がる。大半の生徒が、複数枚の短冊を手にしていた。
「三枚一セットで配ったでござる」
「誰も聞いてねェ」
 晋助の前で怒声を発してしまった気まずさからか、また子は黙っている。武市は元から黙っている。似蔵はというと、まだ宣伝に走らされているようだ。無表情で語る万斉に付き合うのは、晋助だけである。つまらなそう、というよりも些か不機嫌ささえ伺わせる声色だった。
「それだけあれば、この笹だけでなく昇降口の笹にも鬼兵隊短冊が吊るされる。それでようやく宣伝の意味があるというものでござる。それに三枚、つまり一人では確実に全種類は揃えられぬ。よって貰った者同士にコミュニケーションが生まれ、必然的に話題に上る頻度が増える。テスト期間という、ストレスの溜まり易い時期なら尚更でござる」
「聞いてねェ、が」
 晋助は窓の外をちらりと見やる。短冊で笹は色彩豊かに着飾っていく。
「大したもんだよ、てめェは全く。ここまでやるか、普通」
 大きく息を吐き出せば、窓の外で騒ぐ一団があった。晋助は椅子を百八十度回転させ、窓に背を向ける。
「演目の質に見合う客が、欲しいでござろう」
 対する万斉は、ひらひらと手を振ってから窓を背にした。
「確かに、こんだけ練習しといて客がいねェんじゃあ話にならねェ」
 晋助が肩を揺らし、万斉の唇も弧を描く。それを横からじっと見ていたのが、また子だ。
「どうした、また子殿」
「でも勝手に人の写真使うのは、やりすぎっス」
「そのことでござるが、似蔵殿に言われておらんかったのでござるか」
 万斉に問われ、また子が首を傾ける。
「似蔵殿に頼んでおいたのでござるが、写真を使うと」
 再び、また子の怒号が第二視聴覚室に響き渡った。

20090707