ふわりと漂うは枇杷の香り。熟した枇杷は腐り落ち、雨に打たれて無残な姿を晒した。
 そしてまた一つ、黄色の果実が踏みにじられる。
「あんたが、高杉晋助かい?」
 学校を出てから一分と経っていなかった。名を言い当てられ、晋助は振り返る。そして自らの名を呼んだ相手を見上げると、隻眼を細めた。
「岡田似蔵って言えばこの辺りじゃあ結構有名でねえ」
 銀魂高校の制服を着ていた。がっしりとした体格、短いリーゼント頭。黄色いサングラスの向こうに透けて見える両の目は閉じられている。似蔵は唇を嘗めた。
「ちょっと面、貸してくれねえかい」
「はっ、そろそろ誰か来る頃だと思ってたぜ」
 対する晋助も口角を持ち上げる。
「ついて来なよ」
 人気のない場所に移動しようと、似蔵が晋助に背を向けて歩き出した。晋助もそれに続く。
 似蔵は駅へ向かった。線路沿いを歩く。その時、晋助のポケットの携帯が鳴った。
 立ち止まって確認する。画面には万斉の名。
「何だよ」
 通話ボタンを押し、電話に出た。そう言えば、通話中はヘッドホンは外すのだろうか。
――「晋助、今日は顔合わせをすると言ったでござろう」
 いきなりの小言に、晋助は眉間に皺を寄せた。丁度列車が通る。
「誰と話してるんだい」
 前を歩いていた似蔵が立ち止まり、振り返っていた。助けを呼ぶつもりだと思われるのも癪だ。
「聞こえねェ。後でかけ直せ」
 轟々と走る列車の音のせいにして、晋助は一方的に通話を切る。更に携帯の電源自体を切った。元のポケットではなく鞄に滑り込ませ、止めていた足を進める。
「問題ねェ、邪魔は入れさせねェよ」
 晋助の言葉に、似蔵はまた舌なめずりした。
「そうこなくっちゃねえ」
「で、どこまで行く気だ」
 似蔵の隣まで来た晋助は、質問した意味が失くなったことに気付いた。すぐ脇に人気のない倉庫がある。恐らく鉄道会社のものだろう。僅かに隙間の作られた扉には、幾つかの手の跡がついていた。垣間見える中は、窓から差し込む光で薄暗い、と形容する程度の明るさ。
「学校の近くだから、誰でも知ってる秘密の場所って奴さ」
 似蔵は笑い、その暗闇に吸い込まれていく。晋助も数歩後からそれに続いた。

 万斉は走っていた。靴の裏に張り付いた枇杷の実が、ぬちゃりとして気持ち悪い。しかし貴重な時間を無駄にする程ではなかった。
 駅付近。線路と併走する。涼しげな顔で、かつ大して本気で走っているようには見えないが、長い足は目一杯伸ばしていた。
 喧嘩場所として有名な倉庫が見えて来る。スピードは緩めず、そのまま飛び込む。
「晋助!」
 拳を振り上げる晋助が見えた。対する男子生徒は、似蔵。襟首を掴まれている。急に明るい所から薄暗い所に入ったので、互いの表情までは伺えない。ただ晋助に閃くような殺気を向けられたのは、確かだ。
 晋助は一度、万斉の方に気を向ける。その隙を突いて、似蔵が晋助の腕を払う。似蔵に向き直った晋助の眼前に、大きな拳が迫る。避けるよりも先に、振り上げていた拳を突き出す。
 ぐ、とその腕を掴まれた。似蔵は白いシャツで見えなくなる。ただ、微かな鈍い音が聞こえた。
 万斉が間に割って入っていた。
「全く、嫌な予感がした故来てみれば」
 穏やかではあるが、その声は震えていた。万斉の左足が下ろされる。同時に、似蔵がよろめくように後退った。
「人の喧嘩に口挟まないでくれるかねえ」
 似蔵は自らの右腕をさする。蹴られたらしい。晋助はただ、万斉が無言で似蔵の方へ視線を向けたのがわかった。逆立った髪はもしや天を突こうと少し伸びていないかと、晋助は万斉の頭を見ていた。だから、振り向いた万斉と思い切り目が合った。サングラス越しにも分かる程、突き刺さるような視線だった。
「まず一つ」
 声の震えを抑えようとしているのか、万斉はゆっくり言葉を紡ぐ。
「今日はメンバーの顔合わせだと、拙者は先日中にお主に申した筈」
「そうだな」
 肩を竦めて応じた。奇妙なことに、万斉に見下ろされていると感じたのは初めてだった。物理的には常に見下ろされているはすである。しかし平時のことはどうでも良かった。晋助は今や、似蔵よりも万斉を殴りたくなっていた。
「二つ」
 たっぷりとした沈黙の後、万斉は言葉を続ける。
「拙者はお主がここまで愚かだとは思わなかったでござるよ」
 晋助は黙って万斉の次の言葉を待った。白くなるまで握り締められていた拳に、朱が戻った。
「拳で喧嘩をするなど」
 だらり、と晋助の手から力が抜ける。睨む瞳から光が消え、眇められる。
「所詮、てめェもつまらねェ奴だったって訳か」
 吐き捨て、背を向けた。呼び掛けられた気もしたが、晋助は完全に無視を決め込む。
 苛立って、歩み寄った扉に思い切り拳を叩き込んだ。今度こそ万斉が叫ぶように名前を呼んだが、やはり晋助はそれをなかったことにした。

20090630