村唯一の医者の元に身を寄せていた。
村にとっても貴重な蓄えを分けさせて貰い、暫しの休息。血ではなく煮炊きの匂いに抱かれて過ごす夜は、戦に身を投じる若者達の心を幾分か癒やすことだろう。
しかし本当の治療を必要とする者もいる。そのような怪我人を、桂は村医者と一緒になって世話していた。
「おいヅラ、入るぞ」
村医者から桂の居場所を聞き出す。薬を調合していると言う。高杉は辿り着いた襖を開けた。そこで見たのは、文机に突っ伏して寝る桂の姿だった。部屋の奥、開け放った障子の向こうは中庭で、月光を浴びて色とりどりの草花が背を伸ばしている。恐らくそれらが薬草となるのだろう。眠る桂の顔の近くには、同じ花々と乳鉢が見られた。
襖を後ろ手に閉め、高杉はそっと桂に近付く。花の中で眠る桂の顔に表情はなく、それは美しくもあったが不気味でもあった。月光に白い肌が映えていては、尚更だ。
高杉は膝をつくと、肌と対照を成す黒い髪を一房取った。拭いたのか、目立った穢れはない。しかし血の匂いは拭い切れていなかった。
それすら、愛でるつもりなのか。
軽く口付け、頬にかかった髪と共に背へ回す。長い睫が影を落としている。
「おい」
言葉は粗野だが、声色は優しかった。その程度では起きぬ程疲れているのか、桂が目を覚ます気配はない。
高杉は、暫くその寝顔を見つめていた。風が吹く。さわさわと花が揺れる。雲が月を隠す。その闇に乗じるように、高杉は閉じた瞼に唇を寄せた。
「起きろよ」
序でに、耳元で囁く。桂が微かに唸った。
「高杉、か」
瞼が震え、開く。桂は身を起こすと机に押し付けていた方の、口付けられていない方の、瞼を擦った。
「しまった、寝てしまっていたか」
まるで睡眠が罪悪であるかのような口振りである。高杉は吐きそうになった溜め息を飲み込んだ。
「医者がてめェも飯食えってよ」
「しかし」
「いいから」
飲み込んだ筈の息が、あっさり口から飛び出す。
「食わねェと、てめェが保たねェだろうが」
桂も、流石に返す言葉がないようだ。渋々頷く。
「分かった。少し待ってくれ」
桂は自分が顔を埋めていた花を手に取った。赤い花が、かさこそと囁く。
「それは」
桂の取り上げた花を顎でしゃくって、高杉が尋ねた。
「狐之手袋という薬草だ。心之臓を強める薬になる」
「随分毒々しいな。薬と毒は紙一重って奴か」
「うむ、確かに毒ともなる」
赤い花は桂の手の中で、笑う。高杉は桂の横顔を見ていた。文机を片すその顔は、やはり綺麗だと思った。
「ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ」
「てめェ、綺麗に忘れてやがるみてェだな」
桂のお約束の台詞を、高杉はないもののように扱う。しかし桂は高杉の台詞をそう扱う訳にはいかなかった。
「俺は何か忘れているか」
片す手を止め、桂は首を傾げる。高杉は再び嘆息を漏らした。
「今日はてめェの誕生日だろうが」
途端、桂の目が見開かれる。本当に、今の今まで忘れていたようだ。
「前にてめェが言ってただろ、みんなに酒飲ましたいって。酒も用意してある」
続けた高杉の言葉に、桂の瞳が忙しなく動く。
「それは僅かな間だけでも皆の気が休まればいいという意味で、別に祝って欲しい訳ではない」
「わァってるよ、ンなこたァ」
溜め息の次は舌打ちだ。高杉は一瞬桂から目を逸らし、また桂の方を見てその頭を撫でた。
「てめェは黙って祝われてろ」
歪めた唇が、余りにも綺麗な弧を描いている。思い出したように吹いた風が雲を払えば、二人は月影に包まれた。
「では、高杉。俺は、欲しいものがあるのだが」
桂が強請るとは、珍しい。高杉は頷いて先を促す。
「約束をしないか」
「約束」
「そうだ、約束だ」
全く予想外の願いに、高杉はただ鸚鵡返しにそれを繰り返した。桂は尤もなように頷いて言葉を接げる。
「お前はどうも最近、消化するように約束を果たしてばかりでいかん。少しは先に向けた言葉を交わしてはどうだ」
「先に向けた、言葉なァ」
また、高杉は桂の言葉を繰り返した。それには嘲りの色が多分に含まれている。ただその嘲りがどこに向かっているかは、判然としない。
「高杉」
急かすような桂の言葉に、高杉は笑みを収めて視線を巡らす。
「そうだなァ。じゃあ、いつか、てめェの誕生日をこの花で祝ってやる」
桂が纏めて文机に置いた狐之手袋を、高杉は見た。
「薬草もとい、毒草でか」
「俺達には、丁度いいだろ」
せせら笑う高杉を、桂は尚も渋い顔で見つめる。
「まあ、いい」
息を吐いて、桂は小指を高杉に突き出す。
「何だ、この指は」
「指切りだ。約束する時はげんまんをするものだろう」
「誰がやるか、餓鬼臭ェ」
「何だと、指切りはだな」
抗議の為に開かれた桂の口を、高杉は塞いだ。桂が喘ぎを漏らせば、その髪に指を絡ませる。
三度、風が吹いた。月が隠れる。二人を伺うように再び顔を出した月が見たのは、細く紡がれた銀色の糸。
それを手繰り寄せるように、高杉は桂の唇に触れるような口付けを落とした。
「げんまんの代わりだ」
「高す、ぎ」
離れ、立ち上がる高杉を見上げる。
「何、物欲しそうな顔してやがる」
唇を歪めた高杉がつくったのは、常のこしゃまっくれた笑顔だ。
「しておらん」
「心配しなくても、続きは後でしてやる」
「高杉!」
諫めの言葉は、震わせた肩で振り払う。そのまま高杉は退いて、襖に手をかけた。
「先に向けた言葉が欲しかったんだろ」
肩越しに言って、高杉は敷居を跨ぐ。
「さっさと行くぞ」
再び桂が嘆息して、立ち上がる。高杉の後に続いて部屋を出る。
振り向けば、毒々しげな赤花が机に影を落としていた。桂はその光景を、襖の向こうへ封じた。
言の葉
幼い頃は幾つもの約束をした。
あれをしよう、これをしよう。明日、来月、来年、もっと大きくなったら。
それらは果たされたり、果たされなかったりとまちまちだった。けれど果たされなかった時はまた今度、と大した不安もなく再び約束を交わした。
また今度、がなくなってしまう時があるということを、知らなかった頃の話だ。
からりと晴れ上がるということを知らない時節である。
連日雨が続いていた。しかし漸く降り止んでも、ぬかるむ空気はどうしようもない。街灯の周りにうっすらと虹色の暈が出来るのを、桂は忌々しげに見上げた。
バイト帰りの道でのことである。
ふと人の気配がして、桂は腰に差した刀に手を置く。姿を見せぬ相手は、妙に気配を絶つのに小慣れているようだ。しかしこちらが気付くように、わざと完全には気配を消していない。真選組か、はたまた対立している攘夷志士勢力か。
出掛けに同志達の見せた笑顔を思い出して舌打ちする。今夜は早く帰って下さいね、とエリザベスも見送ってくれたというのに。
生温い風が吹いて、ふわりと花の香が顔を撫でた。水分を多く含んだ空気にじわりと滲む香は、どこか懐かしい匂いがした。
ただの無粋者ではないのか。
光の届く範囲から外れ、じりじりと次の明かりの方へ進む。
「その花、収められよ」
表情の読めない声は、背後から聞こえた。振り返る。自分が今し方いた街灯の下には、蛾が一羽舞い惑っている。それだけだった。気配すら消えていた。
桂は脂汗を滲ませる。意図が読めない、薄気味悪さ。じっとりとした空気に息苦しさを覚える。
兎も角、早く帰ろう。
瞬く蛾から目を逸らし、帰るべき道を見据えた。そして見つけた。
行く先の街灯の根元に、竹の一輪挿し。そこに無造作に生けられた、毒々しい赤い花。蛍袋にも似たその花には見覚えがあった。
嗚呼、お前か。
歩み寄って、一輪挿しの取っ手に手を掛ける。文はない。しかし桂は一人、顔を歪ませた。蛾がちらちらと笑っていた。